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2025.10.01

特集

日本遺産巡り#47◆スパイか、ヒーローか。敵か、味方か。
各時代の最先端の知恵と技術で歴史を動かした 「リアル忍者」の姿を追う。

甲賀流リアル忍者館 甲賀流リアル忍者館
暗闇から突如現れて手裏剣を投げる、シュバッと高く飛ぶ、壁をつたい走る、分身する、ドロンと消える――。
「忍者」と聞くと、超人的な特殊能力を持つ存在をイメージする人も多いのではないでしょうか。アニメや映画で活躍する姿に憧れを持ちながらも、あくまでフィクションだと思う人もいるかもしれません。

しかし忍者は、確かに存在する「人間」でした。
その正体は、特別な訓練によって忍術を継承し、権力者のもとへ忍び込んで情報を集める諜報活動に従事し歴史を裏から動かしてきた集団です。さらに興味深いのは、忍者は仕事を遂行するために「暗闇」に溶け込むだけでなく、「日常」にも溶け込み生活していたということ。火術や薬の開発などは、現代の私たちの安全便利な生活のベースとなり、忍術として伝えられてきた知恵や技術は、現代の私たちにも新たな気づきを与えてくれます。

エンターテイメントの世界で描かれる忍者とは異なる「リアル忍者」。
その姿をつかむべく、忍者の里として代表的な三重県伊賀市と滋賀県甲賀市を訪れました。

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忍術の真髄を守り、伝え続けてきた“忍者市”伊賀市へ。

伊賀忍者の息吹を求めて、忍町の武家屋敷や寺社を巡る。

ラッピング電車 Ⓒ松本零士/零時社

上野市駅に向かう伊賀鉄道に乗り換えるところから、今回の忍者旅は始まりました。

くノ一がデザインされたラッピング電車は、『銀河鉄道999』などの作品で知られる漫画家・松本零士さんのデザインです。この緑のほか、青、ピンクの3色があり、青には松本零士さんの直筆サインもあるそう。

電車に乗り込むと、網棚の上に忍者が! 電車に乗り込むと、網棚の上に忍者が!

駅構内のロッカーの上にも! 駅構内のロッカーの上にも!

上野市駅、改め、忍者市駅に降り立ちました。
駅前には忍者モチーフのほか、松本零士にちなんだ鉄郎とメーテルの銅像や、伊賀市で生まれた松尾芭蕉の銅像もあり、北へ10分ほど歩くと伊賀上野城などがある上野公園に行けます。

伊賀鉄道上野市駅舎(忍者市駅) 伊賀鉄道上野市駅舎(忍者市駅)

伊賀流忍者博物館を訪れ、学芸員の幸田さんにお会いしました。

学芸員の幸田さん 学芸員 幸田さん

伊賀忍者と甲賀忍者にはどのような違いがあるのでしょうか?

幸田さん:どちらも大和朝廷時代の杣人(そまびと)という、いわゆる木こりが発祥だと言われていますので、根本的には共通していると思います。その中でも伊賀の忍者は「黒田の悪党」の流れを汲む人々だと言われています。きっかけは杣人が地方の豪族から荘園の管理を任されるようになったことにあります。

 
幸田さん:確かに、伊賀市も甲賀市も、神社仏閣を建造するのに必要な木材の産地だったことが共通しています。荘園とは、平安時代半ばに律令制度で定められた公地公民制が崩壊したことにより、地方の豪族や有力な寺社が水田開発を進め広げていった領地を指します。伊賀には東大寺や春日大社の荘園が多くあったのですが、杣人は管理を行う中で勢力を拡大させ、荘園に反抗するようになったのです。そして「悪党」と呼ばれるようになりました。

「悪党」と聞くとこわいイメージですが…

幸田さん:当時と現代では「悪党」の概念が異なり、「畏れ多い人」という意味です。権力におもねらない信念を持った人々だったのでしょう。こうして伊賀忍者の前身と言われる黒田の悪党は鎌倉時代に活躍したのですが、武士の時代になると寺社の権力とともに悪党の勢力も一旦は弱まりました。戦国時代では各地で大名が勢力を上げる中、伊賀国では大名の力が弱く、中小の権力者が乱立していたことが特徴にあります。そして敵が襲ってきたら団結して戦う「伊賀惣国一揆」を結成しました。伊賀惣国一揆が活動し、伊賀国に波乱が起きたのは、天正伊賀の乱です。1579年に起きた第一次天正伊賀の乱では織田信長の軍勢を退けましたが、1581年にまた戦いが起きました。第二次天正伊賀の乱です。きっかけはなんと、福地氏城の城主である福地伊予守宗隆が、伊賀者でありながら信長に寝返って「伊賀を攻めてはどうか」と申し出たことでした。

福地氏が信長に内通し侵攻の手引きをしたことが、形勢を大きく変えます。

幸田さん:伊賀は周囲6か所から攻め入られて南部へと敗退、柏原城に籠城するも兵糧攻めにより落城しました。この戦いでの損失は非常に大きく、寺や神社の多くが焼かれ、伊賀の人々も3分の1ほどが亡くなったと言われています。そのため織田信長は全国的には人気の高い武将ですが、伊賀では苦手な人が多いんです。

伊賀に江戸時代より前の文献が少ないのは、この天正伊賀の乱の影響と言えます。

幸田さん:伊賀の歴史は、奈良や京都の公家やお坊さんの資料からなんとか読み取っているのが現状です。そんな中でも、江戸時代に郷土史を研究した菊岡如幻の『伊乱記』には天正伊賀の乱や忍びにまつわることが書き残されているので、とても貴重な資料として伊賀の人々は心の支えにしています。

そして1585年、天正伊賀の乱で焼け落ちた平楽寺の跡地に伊賀上野城が建てられました。その城下町に「忍町」と呼ばれるエリアがあります。藤堂藩伊賀者が警護の役割を負って住んだ町で、現在も戦国時代から江戸時代に建てられた町屋建築や道路が残ります。

伊賀市役所産業振興部観光戦略課 山田さん 伊賀市役所産業振興部観光戦略課 山田さん

伊賀市役所産業振興部観光戦略課の山田さんが、忍町を一緒にまわり案内してくださいました。

赤井家住宅 赤井家住宅

赤井家住宅は、藤堂高虎に仕えた丹波家(後の赤井家)の武家屋敷です。敷地内を見学することもできます。

犬矢来 犬矢来

山田さん:塀の外側に斜めに立て掛けられている柵は「犬矢来」と言い、犬の放尿や泥はね防ぐためのもので、道路の境界線を示すものでもあります。

赤井家のすぐ北の通りを過ぎると、道幅が狭くなっています。

赤井家のすぐ北の通り

山田さん:ここは籠を降りて城へと向かったとされる地点です。

集議所 集議所

山田さん:こちらは、現在も忍町の住民の集会の場として使われている「集議所」です。屋根のてっぺんの瓦には「忍」と彫られていて、伊賀者たちの面影を感じるので観光客の撮影ポイントになっています。

幸田さん:江戸時代初期の地図を見ると、忍町は名称の通り、江戸時代初期に「忍びの衆」と呼ばれた「伊賀者」たちの居住地であったことがわかります。ここは伊賀上野城から南へ順に本町通り、二之町通り、三之町通り、馬駆場と東西に伸びる道が続いたさらに南、現在では北忍通りと南忍通りと呼ばれる付近に位置し、昔はたくさんの町家があった場所です。江戸時代中期以降、伊賀者はこの場所から離れ、普段は出身地の村に住み、職務に応じて城下町や江戸に住むようになりましたが、忍町の名は現在にも残っています。城下町に勤めた伊賀者は、特に火薬の知識に長けていたことから鉄砲の管理や城の門の警備や監視も任されていました。

城下町には、伊賀忍者にゆかりのある寺社も多く存在します。

西念寺 西念寺

西念寺には、忍術書『万川集海』をまとめた藤林氏のものと言われる墓が建つ墓所があります。『万川集海』の編者である藤林保武は、三代上忍の一人・藤林長門守の孫でもあります。

西念寺の墓所 西念寺の墓所

山田さん:「富治林」と彫られているのは、藩主・藤堂氏と同じ「藤」の字を避けるために名字を変えたと言われています。

松本院 松本院

幸田さん:松本院は、藤堂家の祈願所として伊予から移った寺だと言われており、伊賀の修験道の根本道場となっています。藤堂藩三代藩主 藤堂高久が眼病を患った時に松本院の山伏が大峰山に参詣すると、たちまち眼病が治ったそうです。そして藩主より病気平癒の感謝を込めて能面が授けられ、その能面をつけて祭礼を行ったことから、上野天神祭の鬼行列が始まったと言われています。
【忍町】
所在地 三重県伊賀市上野忍町
アクセス 伊賀鉄道上野市駅(忍者市駅)から徒歩で約10分
【西念寺】
所在地 三重県伊賀市上野万町2296
アクセス 伊賀鉄道上野市駅(忍者市駅)から徒歩で約15分
【松本院】
所在地 三重県伊賀市上野西日南町1739
アクセス 伊賀鉄道上野市駅(忍者市駅)から徒歩で約11分
伊賀に伝わる忍術屋敷や資料から、リアル忍者の姿を想像する。
伊賀流忍者博物館には、忍者の生活を想像できる資料が多く展示されており、体験しながら学ぶことができます。
土壁の塀に囲まれた忍者屋敷は、伊賀の三大上忍の一人である百地氏が治めた伊賀の東部・高山から移築した屋敷だそうです。

幸田さん:一見、ごく普通の農家ですが、10か所ほどのからくりがあります。この家にもともとあったからくりに加えて、伊賀の各家にあったからくりを集めてあります。
 
壁にはどんでん返しがあり、一瞬で隠れて屋根裏などへ逃げていけるようになっているそう。中を見せていただくと、壁が梯子のようになっていました。

幸田さん:ちょっと後ろを見てください。

鴨居

幸田さんの声に振り向くと…鴨居からのぞく忍者の顔が!
幸田さんがライトアップしてくださったので忍者の姿が見えていますが、本来はこちらからは見えません。つまり、この家に入ったところから忍者に見張られていたことを意味します。

一見、ただの棚が 一見、ただの棚が

2階へ続く階段に早変わり! 2階へ続く階段に早変わり!

床下収納

縁側付近では、敷居が外れ、縁側に床下収納が現れました。お金や巻物など、大切なものを隠す場所だったそうです。

手裏剣とまきびしも入っています。 手裏剣とまきびしも入っています。

素早い動きで床板を外し、刀を構えるくノ一。 素早い動きで床板を外し、刀を構えるくノ一。

幸田さん:襲われたらこうして一瞬で身を守りました。床板の端に切れ込みがあるので、そこを足で踏み武器を取り出して不意を突くのです。ここまで見てもらっておわかりだと思いますが、忍者の基本姿勢は「戦う」ではなく、「逃げる」「隠れる」「身を守る」ことです。

伊賀流忍者博物館の地下には、実物の手裏剣など貴重な資料が展示されているほか、水蜘蛛などの忍具を体験することもできる「忍術体験館」や、忍者の歴史や生活を紹介する「忍者伝承館」があります。

伊賀流忍者博物館 忍者衣装の中にはリバーシブルになっているものもあり、変わり衣と呼ばれています。リバーシブルの特徴を生かし、すばやく変装できるユニークな仕様です。

ジオラマ 江戸時代の伊賀流忍者屋敷のジオラマでは、周辺の様子も含めて忍者の姿を想像することができます。

通路 館の中から外へ避難するために、水の通じていない井戸を掘ったり、道に沿って地下道をつくったりしたと言われています。忍者屋敷では、お仏壇の下から外の井戸へ通路があったようです。

こうした展示を見ていると、自分も忍術を使えるようになるかもと思えてくるのが楽しいところです。
伊賀忍者特殊軍団 阿修羅 が継承する本物の忍術を目の当たりにする。

忍術実演ショー

幸田さんのお話を伺った後は、楽しみにしていた伊賀忍者特殊軍団『阿修羅』による忍術実演ショーです。

伊賀忍者特殊軍団『阿修羅』は、伊賀流の真の伝統を受け継ぐ三重県と伊賀市の公認忍者により結成されるハイレベルな忍者軍団で、海外公演やテレビ・映画・舞台などにも多数出演してきています。私たちが見た回の出演は、昌之助さん、知之助さん、くノ一のYUMEさんでした。リピーターの方が何度来ても楽しめるようにと、出演者や演目は毎回変えているそうです。

客席は忍者衣装の子どもや外国人も多く、わくわくした気持ちとともに、未知の世界に少し緊張する空気感もあります。静かに笛の音が響き、まずは昌之助さんが登場。

「臨!兵!闘!者!皆!陣!列!在!前!」
忍者の精神統一法である九字護身法を結んだ後に、日本刀で巻藁を鮮やかに切り落とし、拍手が起こります。

その後、忍者刀を出し、日本刀との違いを解説してくれます。ちなみに解説部分はすべて英語訳も流れるので、外国人観光客もうなずきながら真剣に聞いています。忍者刀は日本刀のような反りがなく、刀身がまっすぐな「直刀槍型」で、これは「刺す」という使い方をするからだそう。他にもいろいろな使い方があると、次はくノ一YUMEさんが実演してくれます。
矢印のように尖っている鞘の先端を地面に突き立て、鍔に足をかけて塀にひょいっと登り、口にくわえていた下げ緒を持ち替えて刀を引き上げる――おそらく1~2秒の出来事で、その素早さに「おおー!」と歓声が起こります。

その後も、知之助さんとYUMEさんによる「座探りの術」や忍び武器を使った対決、コントロール抜群な昌之助さんによる手裏剣投げや打ち矢などが目の前で繰り広げられ、そのスピードと迫力に圧倒されます。

意外だったのは、手裏剣がずっしりと重かったことです。懐から何十枚も出して重ねて持ち、シュシュシュシュッと連続で投げて敵を攻撃するイメージでしたが、実際は1枚200gほどあり、1~2枚しか持ち歩かないものだったそう。手裏剣には毒を塗っておき、いざという時に最後の切り札として使ったようです。

忍術実演ショー

煙でドロンと消えるとか、壁を走るとか、そういったアニメからイメージされる忍者ではなく、あくまで敵地に忍び込むための知恵や工夫、いざという時に身を守るための戦闘術であることが理解でき、リアル忍者の姿を見た思いになれました。

解説もわかりやすいので「そうなんだ!」「すごい!」と大人も子どもも外国人も引き込まれ、またコミカルな演技や会場参加型の演出も楽しく、あっという間の30分間でした。

昌之助さんと知之助さんは、阿修羅の頭領・半蔵さんのご子息で、幼い頃から忍術を訓練してきた兄弟です。そしてYUMEさんは現役大学生の新メンバー。海外留学の経験からも日本の魅力を継承し発信したいという信念を持ち、「海外で忍術ショーをするのが夢」だと話してくださいました。

幸田さん:ショーを見ると、忍術とは敵を攻撃するものではなく、身を守るものだということが伝わったと思います。忍者は何よりコミュニケーションを大切にしていたと言われており、忍術書には人を引き寄せる術が書かれています。『万川集海』にも「顔を穏やかにしていると自然に情報が集まってくるよ」というようなことが書かれており、忍者はいつもにこにこ笑顔だったのだろうと思われます。こうしたコミュニケーション術は現代に応用できることが多く、私も忍者から学ばせてもらっています。

そう話してくださる幸田さんはとても優しい笑顔で私は安心しきっていたので、すでに幸田さんの術に取り込まれていたのかもしれません(笑)。

幸田さん:現在も「忍術を習いたい」という人が後を絶たないのは、忍術が自分の肉体も精神も鍛え、生活に直結する知恵であるからだと思います。例えば、防災と忍びの研究をされている三橋源一先生によると、江戸後期に伊賀を襲った大地震の際、忍びの者が中心となって調査し、幕府が驚くほどの速さで被害報告を行ったようです。つまり忍者の身の守り方や情報収集力は近年の防災にも生かせるのではと言えるのです。

三重大学には国際忍者研究センターが設置され、本格的な忍者研究が進んでいるそうです。

幸田さん:リアル忍者を解明しようと研究が盛んに行われています。そこで得られた新しい知見をこうした観光施設でも、お客様に驚きと楽しさとともにわかりやすくかみ砕いて伝えていくことが使命だと思っています。

【伊賀流忍者博物館】
所在地 三重県伊賀市上野丸之内117
アクセス 伊賀鉄道上野市駅(忍者市駅)から徒歩で約7分

伊賀流忍者博物館の公式サイトはこちら

甲賀市と交流が深かった地域で長く愛される神社へ。

手力神社 手力神社

伊賀上野城周辺を離れ、滋賀県甲賀市にほど近い場所にある手力神社を訪れました。
1288~1293年に創建されたと伝えられる神社で、祭神は天手力雄命。境内には、冨治林正直が献灯したとされる石灯篭もあります。

鈴の緒 境内にある壕に小さな橋がかかっていて、渡ると巨大な鈴の緒が見えてきます。

鈴の緒 字が判別できなくなっている昔からのお願いごとに加え、近年のお願いごとと思われる絵馬も掛けられています。

伊賀市役所産業振興部観光戦略課の森さんが案内してくださいました

伊賀市役所産業振興部観光戦略課 森さん 伊賀市役所産業振興部観光戦略課 森さん

森さん:手力神社がある場所は旧阿山町にあたり、すぐ隣合わせにある甲賀市との交流が盛んだった町です。伊賀市の中でもちょっと変わった地域性を持っていて、今も買い物や通勤、通学などで甲賀市側に出て滋賀県内や京都府へ向かう人が多くいます。

火の奉納

藤林一族が火術を得意としたことから、火の奉納が行われてきました。

森さん:夏の風物詩である花火を、毎年10月に上げる珍しい神社です。伊賀地域で一番遅い花火として有名なんですよ。
【手力神社】
所在地 三重県伊賀市東湯舟1025
アクセス JR関西本線「柘植駅」から車で約10分

時代を読み、忍術を活用してきた
誇り高き忍者の里、甲賀市へ。

一族の繁栄を守るために戦った甲賀忍者を追う研究の最前線。
手力神社から北へ向かうと3分ほどで滋賀県甲賀市に入りました。車で山道を走っていると、伊賀も甲賀も木こりが発祥だといわれる土地柄を実感します。

伊賀忍者に続き、甲賀忍者のリアルな姿を探るため、甲賀流リアル忍者館へ。お話をしてくださったのは、地域プロジェクトマネージャーの福島さんです。福島さんは、甲賀流忍者調査団「ニンジャファインダーズ」の団員でもあります。2階には甲賀流忍者調査団の調査により新たに発掘された忍術書などが集められた「甲賀流忍者調査団 展示室」があり、資料とともに解説してくださいました。

地域プロジェクトマネージャー 福島さん 地域プロジェクトマネージャー 福島さん

伊賀忍者の発祥は「悪党」だと伺ってきたのですが、甲賀忍者はどうなのでしょうか?

福島さん:甲賀には悪党という概念はなく、地域毎に荘園を管理する人がそのままその地を小領地として台頭していき、他の地域を飲み込まずそれぞれ自治を行いました。

強大な一つの勢力が統治したり、各地で領地争いをしたりするのではなく、中小の権力者が自治を行ったという歴史は伊賀と共通します。なぜなのでしょうか?

福島さん:鎌倉時代から戦国時代にかけて、この地域は近江国という国で、六角氏が大名として治めていました。しかし非常に大きな国でしたから、最南部の甲賀郡まで勢力を及ぼすことができなかったのではないかと考えられます。距離が遠く、山に囲まれた複雑な地形でしたから。ただ六角氏の家臣が甲賀市にいたこともわかっているので、まったく勢力が届いていなかったわけではなく、ある程度の自治を許されていた状況だったのだと思います。

福島さん:室町時代には、親族だけで組織する「同名中」がたくさん生まれました。ここには武士も百姓も女性も子どもも入っていたようです。そのメンバーが寄合を行ったのは、地域の鎮守である神社です。映画やドラマでロケ地となることが多いことで有名な油日神社は、上野家の同名中が寄合を行う場でした。
 

油日神社 油日神社

実際の油日神社を訪ねてみると、楼門の左右から境内を囲むように広い回廊が延びており、その迫力から上野家の規模の大きさを感じられます。

福島さん:回廊では各家が座る場所が決まっていたようです。同名中の寄合が行われる神社はいくつもありましたが、この油日神社は甲賀郡全体のトップで「甲賀の総社」と呼ばれました。

境内を囲む回廊 境内を囲む回廊

組織構成や自治を進める姿勢など、共通点が多い伊賀との交流はあったのでしょうか?

福島さん:積極的に伊賀へ戦いを仕掛けていく姿勢はなく、伊賀とも仲良しでした。伊賀者と婚姻関係を結んだという資料もあります。

しかし天正伊賀の乱で命運が分かれます。甲賀も伊賀も六角氏の配下にあったのですが、甲賀衆は時代の潮流を読んで織田家の傘下に入りました。結果として、織田軍とともに伊賀を攻めたことになります。

福島さん:一族を守るため、また信長の側近にいる武将に甲賀出身者が多かったことなどから、信長側についたのは自然な流れだったと思われます。

天正伊賀の乱では織田軍が勝利したものの、その後、信長は本能寺に倒れることに。その際、堺にいた徳川家康が三河に帰る行程を助け、関ヶ原の戦いで家康に命を尽くしたことなどから、家康は甲賀衆に恩を感じ召し抱えました。

福島さん:家康に召し抱えられて江戸城大手門の警備にあたる者、各藩に仕える者、百姓に戻る者、と甲賀忍者の進路は主に3パターンに分かれました。ここで面白いのは、百姓に戻った者が「元忍者」という経歴を生かして就職活動を行ったという記録です。
福島さん:、奉公願書いわゆる履歴書の自己PR文です。忍者時代の自分や祖先の功績を列挙しています。忍具は、ロケット花火や爆弾のような、当時では最先端の技術が搭載されたもの。つまり忍者はイノベーターであり科学者であったため、重宝されたと思われます。就職活動なので、話を多少は盛っている点も見受けられますが、こうした由緒書があるおかげで、現代の私たちも忍者の活躍を知ることができます。
甲賀流忍者調査団の活動の始まりになった「渡辺俊経家文書」の一部も展示されています。

福島さん:実は私、この屋敷に住んでいます。末裔の方が高齢になり都市部に引っ越すとおっしゃるので譲り受けたんです。リフォームされたり、火事で蔵が焼けたりして当時のままではありませんが、刀や農具など貴重な品が残っており、この「渡辺俊経家文書」も一棟だけ焼け残っていた蔵から発見されたんです。

杉谷渡辺屋敷図と、屋敷からの出土品 杉谷渡辺屋敷図と、屋敷からの出土品

福島さんは千葉県出身で、忍者好きが講じて研究のために甲賀市に移り住んできたそう。屋敷図を見て「いつか当時の間取りに戻したいと思っていて」と話す目がキラキラしていてロマンを感じました。

忍術書 忍術書

福島さん:忍術における心構えは現代にも生かしたいものが多く、例えば『正忍記』には「人を破らざるの習い」というのがあって、現代風にいうと「人にマウントをとらない」「論破しない」ということが書かれています。忍者の主な目的は情報収集ですから、相手が塞ぎ込んでしまっては欲しい情報を聞き出せなくなってしまいます。相手を立てて気持ち良くしゃべってもらい情報を引き出すコミュニケーション術は、ビジネスの場でも役立つはずです。

なるほど、SNSでマウント合戦になりがちな現代こそ、この術は必要かもしれません。

福島さん:他の忍術書に「忍び込む時は恋文を一通持っておくとよい」というユニークな忍術もあります。もし見つかっても「お宅の奥さんのことが好きで…これを届けに来たんです」と言ってラブレターを出せば、変態だと思われても忍者とはバレないというのです。機転を利かせた忍術に知能の高さを感じますよね。これも忍者の好きな部分です。

思わず大きな声で笑ってしまい、忍者の存在を身近に感じられたようでした。

甲賀流リアル忍者館には、貴重な展示が並ぶほか、歴史をストーリーで学べるプロジェクションマッピングが放映されています。

プロジェクションマッピング

子どもが楽しく忍術体験ができるコーナーもたくさんあります。
スマホをかざし水遁の術のAR体験ができます。火遁の術など他パターンもあり、まるでアニメの世界の中に入ったような写真が撮れます。
手裏剣打ち、忍術を使ってミッションを遂行するチャレンジコーナーなどもあり、楽しそうです。
福島さん:甲賀流リアル忍者館は観光インフォメーションセンターですので、まず初めに訪れてもらいたいですね。動画や体験で楽しく忍者を知ることができるので、ここから他の忍者関連施設にも興味を持って出かけてもらいたいですし、リアルな忍者の姿を知ってもらいたいと思っています。新しい体験コーナーも計画しているので期待してください!

【甲賀流リアル忍者館】
所在地 滋賀県甲賀市甲南町竜法師600 忍の里プララ内
アクセス JR草津線「甲南」駅から車で約5分、または徒歩で約20分

甲賀流リアル忍者館の公式サイトはこちら

【油日神社】
所在地 滋賀県甲賀市甲賀町油日1042
アクセス JR草津線「油日」駅から徒歩で約30分
車の場合、新名神 甲賀土山ICもしくは甲南ICから約20分・名阪 上柘植ICから約15分

油日神社の公式サイトはこちら

甲賀忍者の生業から現代に続く「くすりの町“こうか”」。

甲賀市くすり学習館 甲賀市くすり学習館

伊賀は火術を、甲賀は薬を得意とした、と特徴を分けて語られることが多くありますが、実際はどちらも得意としていたようです。

福島さん:火術も結局は、薬の調合の技術と言えます。つまり、火薬に使ったか医療に使ったかの違いで、技術的には共通しています。伊賀は藤堂藩に仕えた忍者が鉄砲などを使用していたので、火術が生業というイメージが強くなり、一方で甲賀は、水口藩で忍者として雇われることがなかったため、製薬や売薬を生業とする者が多く現れたことが関係していると考ています。

甲賀市では今でも薬の生産が盛んです。甲賀市くすり学習館を訪れ、薬と忍者との関連を学ばせてもらいました。
案内してくださったのは、館長の長峰さんです。
 

館長 長峰さん 館長 長峰さん

長峰さん:後ろの壁にある絵は、甲賀市の信楽焼でできた陶板画で、『万葉集』にある歌の場面を再現しています。668年、近江国の蒲生野で「くすり狩り」が行われた際に、額田王が大海人皇子に送った相聞歌で、「紫草(むらさき)」という薬草が出てきます。白い花を咲かせる紫草は皮膚用軟膏の効能があるほか、紫色の染料としても使用されてきました。その紫色に染めた衣服を着ると病魔を払うとされ、高貴な人が着る衣服に用いられました。
古代から甲賀市では薬草が豊富だったことが読み取れます。

長峰さん:戦国時代以降、甲賀者は飯道山で山伏とともに修行する中で、山伏から薬づくりも習ったと言われています。山伏らは多賀社をはじめ有力な社寺に仕えてお札を全国に配り歩くことを生業としており、お札を買ってくれた人にお土産としてちょっとした薬をあげていました。

しかし明治維新が起きて修験道が廃止されると配札ができなくなりました。

長峰さん:そこで薬を売るようになったようです。その方法は「配置売薬」、いわゆる「置き薬」で、一軒一軒訪ねて薬を置いてもらい、半年くらい経ったところで再度訪ねて薬が減った分だけ代金をもらい、補充していました。薬売りはそれぞれ得意先を持っていたので、全国の情報集めにも良かったのだと思います。

館内には、当時使われていた薬づくりの道具や薬草、資料がテーマ毎に並びます。

製丸機 製丸機

丸薬匙 丸薬匙

練り上げた原料から丸薬をつくる製丸機です。押し出されてパスタ状に出てきた薬をヘラで切り、もみ板で転がして丸めます。乾燥させ、湿気やカビを避けるために表面に金箔や朱を打って完成です。細かな薬粒は、丸薬匙などを用いて数え、袋に詰めました。
長峰さん:女性が薬を袋につめ、それを男性が柳行李という籠に入れて背負い、一軒一軒得意先をまわり売っていました。四段の籠には、新しく補充する薬、期限が切れて回収する薬を分けて入れ、買ってくれた人にプレゼントする紙風船を入れる段もありました。一番上の段には文房具を入れ、計20㎏ほどになったと言われています。

当時の薬袋が並ぶ中、一つだけ膨らんでいる袋があります。

真綿薬 真綿薬

長峰さん:これは「真綿薬」といって、綿に包まれた薬が入っています。ティーバッグのような原理で、お湯に浸すと薬の成分が染み出すので、綿を取り出して飲みます。
現代の私たちになじみのある薬草も並びます。

長峰さん:薬草は、使い方で薬にも毒にもなります。マメハンミョウなどは、井戸に投げ入れると水を飲んだ人を倒せると、生物兵器のような使い方が忍術書に記されています。そうした秘薬を扱うため、忍者は「正心」を大切にしていました。

「正心」は『万川集海』の冒頭にある忍者の精神で、忍術を私利私欲に用いてはいけないことが延々と説かれているそうです。

正心

長峰さん:「忍」という漢字は刃の心と書きます。心を間違えば、忍者はただの犯罪者になってしまいます。そうならぬよう心を刃のように硬くして耐え忍び、恐怖心を克服することが大切なのです。だから忍者は印を結んで心を静めたり、神仏に祈ったりして精神を集中させていました。

諜報活動においてはもちろん、薬づくりにおいても、「薬法ニ大秘ノ口決ハイツレモ自分々々コシラヘテ試ミ、至当ナルヲ用ユヘシ」と記されていたように、忍者は各自で何度も製造法の実験を繰り返し、最も効果のある調合法を見つけ出していました。その姿はまさに薬学博士であり、科学者であったといえるでしょう。

長峰さん:兵糧丸などの忍者食も薬の調合知識により生まれたものです。このくすり学習館でも薬研を使った兵糧丸づくりを体験できます。当時のレシピ通りだと砂糖が多すぎるため少し配合は変えてありますが、できたては生八ツ橋のような柔らかい食感で美味しいですよ。

【甲賀市くすり学習館】
所在地 滋賀県甲賀市甲賀町大原中898-1
アクセス JR草津線「甲賀」駅から徒歩で約25分
車の場合、新名神 甲賀土山ICもしくは甲南ICから約15分・名阪 上柘植ICから約15分

甲賀市くすり学習館の公式サイトはこちら

リアル忍者から学ぶ、「正心」のモットーが
迷える現代人の一筋の光明に。

リアル忍者を追う旅を通して、ミステリアスで曖昧なイメージだった忍者の姿が、体温を帯びて感じられるようになりました。

長峰さん:実は日本遺産の登録に向けて準備を進めたのは私なんです。その際、忍者のストーリーを伝えるまでに、とても長い時間をかけて多くのことを考えました。忍術とは、現代に伝わる製薬技術や宗教文化、豊かな自然、複雑な地形、京都や大坂、名古屋との交流や情報網などが絡み合って昇華したものだと考えています。現代の世に忍者の姿はありませんが、これらの要素が互いに関連し合うと、ストーリーが動き出し、途端に忍者が息づいて見えてくるのです。

『万川集海』は伊賀と甲賀の忍術を集めて書かれた忍術書で、それは口伝で継承されてきた忍術が途絶えてしまわないように、というのが編纂のきっかけだったと言います。
つまり、平和になって戦いの場で忍者が活躍することはなくなったから。
それでも後世に伝えようとしたのは、忍術は戦いの術だけではなく、身を守り、心を強く正しく持つための術だったからではないでしょうか。

伊賀市の幸田さんも、甲賀市の福島さんも、忍者が持つ「知力」「体力」「精神力」に加え、最も継承したい忍術として、「コミュニケーション力」のお話をしてくださいました。そして巡った史跡や資料から感じられるものも、忍術という生きる力を神秘的なものとして伝えようとする人々の真剣な思いでした。

伊賀市と甲賀市、それぞれの地域に残る忍者の足跡は、現代の私たちにも生きる術を教えてくれるためにあるのかもしれません。
【この記事で紹介した構成文化財】 藤林長門守墓所
忍町
松本院
伊賀流忍者博物館
手力神社
甲賀の薬関連資料(甲賀市くすり学習館)
忍書(甲賀流リアル忍者館)
油日神社

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