特集SPECIAL CONTENTS
2025.12.11
特集
日本遺産巡り#49◆73kmの距離と150年以上の歴史。
“長い道”の軌跡をたどる。
播但貫く一筋の道、それが「銀の馬車道・鉱石の道」です。全長73kmにわたる長い道の、ある部分は銀の産出と物流により明治政府の殖産興業政策の推進力となり、またある部分は多様な金属資源を産出して昭和の戦後復興や高度経済成長を支えました。
道の姿は時代とともに変化し、現在ではその大部分が失われたようにも見えます。しかしその軌跡をたどれば、明治以前の面影を残す宿場町や昭和の活況を伝える鉱山町が息づいています。「資源大国・日本」の記憶を未来に運ぶ道として、今も地域の人々の夢をつないでいるのです。
道の姿は時代とともに変化し、現在ではその大部分が失われたようにも見えます。しかしその軌跡をたどれば、明治以前の面影を残す宿場町や昭和の活況を伝える鉱山町が息づいています。「資源大国・日本」の記憶を未来に運ぶ道として、今も地域の人々の夢をつないでいるのです。
「銀の馬車道」をたどる
明治初頭、生野銀山の近代化に不可欠だった道
「銀の馬車道」を語るには、「生野(いくの)銀山」から始める必要があります。
ときは明治初頭。誕生したばかりの明治新政府の最重要課題は、産業振興と財政基盤の確立でした。そこで政府は、全国に点在する各種鉱山の国営化と近代化に乗り出します。近代化のモデル「マザー・マイン」としてその第一号となったのが、生野銀山でした。当時は休山状態にあった幕府直轄銀山を明治元(1868)年に接収し、海外の技術を導入して機械化を図り、格段の生産量アップをめざしたのです。
そして、銀山の近代化にはどうしても必要なものがありました。それが、物流の近代化。すなわち「銀の馬車道」の整備でした。
銀の馬車道――正式名称「生野鉱山寮馬車道」は、現在の姫路港にあった飾磨津物揚場(しかまつものあげば)から生野銀山まで49kmに及ぶ日本初の高速産業道路として明治6(1873)年に着工、3年後の明治9(1876)年、生野銀山再建と同時期に開通しました。
それまでの日本には発想すらなかった舗装道路、しかも全長49 kmという巨大なプロジェクトが、わずか3年という短工期で完成できたのはなぜなのでしょうか。そこにはどのような馬車が、どんなスピードで走っていたのでしょうか。
ときは明治初頭。誕生したばかりの明治新政府の最重要課題は、産業振興と財政基盤の確立でした。そこで政府は、全国に点在する各種鉱山の国営化と近代化に乗り出します。近代化のモデル「マザー・マイン」としてその第一号となったのが、生野銀山でした。当時は休山状態にあった幕府直轄銀山を明治元(1868)年に接収し、海外の技術を導入して機械化を図り、格段の生産量アップをめざしたのです。
そして、銀山の近代化にはどうしても必要なものがありました。それが、物流の近代化。すなわち「銀の馬車道」の整備でした。
銀の馬車道――正式名称「生野鉱山寮馬車道」は、現在の姫路港にあった飾磨津物揚場(しかまつものあげば)から生野銀山まで49kmに及ぶ日本初の高速産業道路として明治6(1873)年に着工、3年後の明治9(1876)年、生野銀山再建と同時期に開通しました。
それまでの日本には発想すらなかった舗装道路、しかも全長49 kmという巨大なプロジェクトが、わずか3年という短工期で完成できたのはなぜなのでしょうか。そこにはどのような馬車が、どんなスピードで走っていたのでしょうか。
播磨学研究所名誉所長 中元孝迪さん(右)
兵庫県中播磨県民センター 鷹取和希さん(左)
銀の馬車道に詳しい播磨学研究所名誉所長の中元孝迪さんと一緒に、姫路港を臨む博物館「姫路みなとミュージアム」を訪ね、展示物を見ながらお話を伺いました。
ミュージアムに展示されたジオラマの奥の方、赤レンガ建物がある辺りが、銀の馬車道の始点・飾磨津物揚場です。
現在その場所付近には、レンガ倉庫の一部がモニュメントとして残されています。
現在その場所付近には、レンガ倉庫の一部がモニュメントとして残されています。
わずか3年で完工できた要因は何だったのか?
「銀の馬車道」と言うからには、「銀を運ぶ馬車が通るために整備された道」と考えていいのでしょうか。
中元さん:銀を運んだことは間違いないでしょうが、その前にもっと基本的な役割がありました。銀山の近代化にあたり、外国製の大きな機械を、飾磨津(姫路港)から生野まで持っていく必要があったわけです。ところが当時の道は、幅がせいぜい1~2m、雨が降ればぬかるんでしまうような状態で、大型機械を運べる道ではなかった。これが、銀の馬車道を必要とした最初の理由でしょうね。鉱山に必要な機械や資材・燃料などを生野まで運んだ後、空荷で帰るのはもったいない。では銀を運ぼう、となったのではないでしょうか。
江戸時代以前も、生野で採れた銀は飾磨津まで運ばれていましたが、その方法は人が担ぐか、馬に背負わせるかしかなく、数日間かけて少しずつ運びました。しかし機械化が進んだ明治の鉱山となると、それでは間に合わない。そこで、高速かつ大量に輸送できる馬車に役割を譲ることになった、ということです。
ただし中元さんによると、銀の馬車道に関する当時の記録はあまり残っておらず、調査研究も途上であるため、道の用途や工法については諸説ある、とのこと。中元さんのお話も、断言することなく、想像を交えつつ進みました。
実際には、どのような道だったのでしょうか。
姫路みなとミュージアムには、銀の馬車道の剥ぎ取り断面が展示されています。現在私たちが知っているアスファルト舗装とは異なる「マカダム式舗装」の構造を見学できます。
中元さん:銀を運んだことは間違いないでしょうが、その前にもっと基本的な役割がありました。銀山の近代化にあたり、外国製の大きな機械を、飾磨津(姫路港)から生野まで持っていく必要があったわけです。ところが当時の道は、幅がせいぜい1~2m、雨が降ればぬかるんでしまうような状態で、大型機械を運べる道ではなかった。これが、銀の馬車道を必要とした最初の理由でしょうね。鉱山に必要な機械や資材・燃料などを生野まで運んだ後、空荷で帰るのはもったいない。では銀を運ぼう、となったのではないでしょうか。
江戸時代以前も、生野で採れた銀は飾磨津まで運ばれていましたが、その方法は人が担ぐか、馬に背負わせるかしかなく、数日間かけて少しずつ運びました。しかし機械化が進んだ明治の鉱山となると、それでは間に合わない。そこで、高速かつ大量に輸送できる馬車に役割を譲ることになった、ということです。
ただし中元さんによると、銀の馬車道に関する当時の記録はあまり残っておらず、調査研究も途上であるため、道の用途や工法については諸説ある、とのこと。中元さんのお話も、断言することなく、想像を交えつつ進みました。
実際には、どのような道だったのでしょうか。
姫路みなとミュージアムには、銀の馬車道の剥ぎ取り断面が展示されています。現在私たちが知っているアスファルト舗装とは異なる「マカダム式舗装」の構造を見学できます。
中元さん:馬車道の大部分は水田地帯を通しました。田んぼの表土・粘土層を取り除いた上に、まず大きめの石と土砂を混ぜた層、次に拳ほどの石と土砂の層を重ね、一番上には直径2cmほどの小石で20~30cmの層を作って、人力で叩き固めました。また、道路の中央部を高くして雨水が流れるようにし、左右には排水溝を設けました。重量のある馬車が通ってもわだちができにくく、ぬかるむこともなく、そしてなにより車輪がスムーズに回転する、馬車輸送に適した当時(19世紀初頭)の最先端技術でした。これが「マカダム式」と呼ばれる道路工法です。欧米先進国の道路のほとんどはこの工法で造られたといわれています。
馬車道が開通したことにより、江戸時代には数日間を要した生野-飾磨津間の輸送時間は大幅に短縮。朝に生野を出た馬車が、その日の夕方には飾磨津に着いたということです。まさに「日本初の高速産業道路」なのでした。
完成した道幅は約6m。当時としては目を見張る広さだったでしょう。これほどの工事が全線わずか3年で完了したのは驚きです。工期の短さは、「明治新政府の意気込みもさることながら、地域住民の協力があったことが大きい」と中元さんは言います。ではなぜ、地域住民は協力したのでしょう。銀の馬車道が通ることの地域メリットは何だったのでしょうか。
中元さん: 生野と飾磨津の間には辻川・屋形・粟賀といった宿場町があり、江戸時代には銀や物資を運ぶ人や馬の休憩・宿泊地として栄えていました。ところがそこに、得体の知れない物流専用道路ができるという。当初の計画では、街道とは別の場所を通ることになっていたので、宿場の人々にとっては死活問題です。なんとしてもわが町を通すよう嘆願書を出したり、町の有力者が私有地を供出したりと懸命な誘致活動を行ったようです。
自分が暮らす地域を大切に思う気持ちは今も昔も変わりません。人々の熱意が、明治政府を動かしたのでしょう。
ただ、馬車道は官営道路だったため物流関係者以外は通行できなかったという説もあり、銀の馬車道が宿場町にもたらした経済的・文化的価値についてはよくわかっていないということです。
完成した道幅は約6m。当時としては目を見張る広さだったでしょう。これほどの工事が全線わずか3年で完了したのは驚きです。工期の短さは、「明治新政府の意気込みもさることながら、地域住民の協力があったことが大きい」と中元さんは言います。ではなぜ、地域住民は協力したのでしょう。銀の馬車道が通ることの地域メリットは何だったのでしょうか。
中元さん: 生野と飾磨津の間には辻川・屋形・粟賀といった宿場町があり、江戸時代には銀や物資を運ぶ人や馬の休憩・宿泊地として栄えていました。ところがそこに、得体の知れない物流専用道路ができるという。当初の計画では、街道とは別の場所を通ることになっていたので、宿場の人々にとっては死活問題です。なんとしてもわが町を通すよう嘆願書を出したり、町の有力者が私有地を供出したりと懸命な誘致活動を行ったようです。
自分が暮らす地域を大切に思う気持ちは今も昔も変わりません。人々の熱意が、明治政府を動かしたのでしょう。
ただ、馬車道は官営道路だったため物流関係者以外は通行できなかったという説もあり、銀の馬車道が宿場町にもたらした経済的・文化的価値についてはよくわかっていないということです。
銀の馬車道を未来につなげる
このようにして完成した銀の馬車道でしたが、明治の半ばにはより輸送効率のよい鉄道へと徐々に役割を譲り、大正9(1920)年には廃止されます。
銀の馬車道の大部分は、現在は生活道路として地域に息づいているものの、往時の姿はほとんど残っていません。銀の馬車道の記憶を地域にどう活かすのか、沿線の産官学関係者で組織する「銀の馬車道ネットワーク協議会」の会長も務める中元さんに今後の課題と展望について尋ねました。
中元さん:今はまず、銀の馬車道の“見える化”を推進しています。現在設置されている修築碑や馬車模型に加え、JR姫路駅の構内を横切る馬車道の軌跡をフロアシートで表現するなど、目に見える形で残していきたい。そして将来的には、道の復元もできればと考えています。せっかくの遺産なのですから、活かさないとね。
このほかにも、馬車道にちなんだお菓子やお酒などの商品開発、沿線地域の農産品「銀馬車かぼちゃ」を活かしたメニュー開発など、馬車道を知ってもらう活動が行われています。また、地域の子どもたちを対象に「道」を題材とした川柳コンテストも毎年開催しており、銀の馬車道の認知は子どもたちの間でも広がってきたということです。
中元さん:銀の馬車道・鉱石の道は、兵庫県を南北に貫く道で、姫路城と竹田城、さらには城崎温泉にもつながる広域的な観光資源です。沿線地域の活性化はもちろん、兵庫県を一つにするシンボル的な存在として活かしていきたいと思っています。
【姫路みなとミュージアム】
銀の馬車道の大部分は、現在は生活道路として地域に息づいているものの、往時の姿はほとんど残っていません。銀の馬車道の記憶を地域にどう活かすのか、沿線の産官学関係者で組織する「銀の馬車道ネットワーク協議会」の会長も務める中元さんに今後の課題と展望について尋ねました。
中元さん:今はまず、銀の馬車道の“見える化”を推進しています。現在設置されている修築碑や馬車模型に加え、JR姫路駅の構内を横切る馬車道の軌跡をフロアシートで表現するなど、目に見える形で残していきたい。そして将来的には、道の復元もできればと考えています。せっかくの遺産なのですから、活かさないとね。
このほかにも、馬車道にちなんだお菓子やお酒などの商品開発、沿線地域の農産品「銀馬車かぼちゃ」を活かしたメニュー開発など、馬車道を知ってもらう活動が行われています。また、地域の子どもたちを対象に「道」を題材とした川柳コンテストも毎年開催しており、銀の馬車道の認知は子どもたちの間でも広がってきたということです。
中元さん:銀の馬車道・鉱石の道は、兵庫県を南北に貫く道で、姫路城と竹田城、さらには城崎温泉にもつながる広域的な観光資源です。沿線地域の活性化はもちろん、兵庫県を一つにするシンボル的な存在として活かしていきたいと思っています。
【姫路みなとミュージアム】
| 所在地 | 兵庫県姫路市飾磨区須加294(姫路ポートセンター2階) |
|---|---|
| アクセス | 姫路駅から神姫バス「姫路港」行き約20分 山陽電鉄「飾磨」駅から徒歩5分 姫路バイパス「中地ランプ」出口を南へ約4.1km |
銀の馬車道を実際にたどってみよう
ミュージアムを後にして、生野銀山までの馬車道をたどることにしました。姫路港から車で30分ほど走ると、市川にかかる生野橋のたもとに馬車道修築碑がありました。銀の馬車道完成を記念して明治9年に建てられた石碑で、困難だった工事の様子が詳しく記されています。
辻川・屋形・粟賀の宿場町を通る旧馬車道を車で走りながら、明治の面影を残す町並みの趣を味わいます。馬車道の誘致に尽力した人々の努力が、この町並みに残っているのかもしれません。
道の駅「銀の馬車道・神河」で車を降りて、「現存する馬車道」を歩いてみましょう。明治のマカダム式舗装がそのまま残っているわけではありませんが、当時から人の手が何も加えられていないことは事実で、一足ごとに感慨が深まります。
現存する銀の馬車道から生野鉱山町までは車で十数分の距離。「銀の馬車道」と「鉱石の道」の結節点、生野はもうすぐそこです。
「鉱石の道」をたどる
明治から大正・昭和へ、日本経済を支えた鉱山群
銀の馬車道が大正9年に廃止された後も、但馬地域の鉱山群の活況は止まることなく、明治・大正・昭和の3時代を通じて、日本の近代化や戦後復興・高度経済成長を牽引しました。生野から北西へ24km続く鉱石の道を構成する、生野・神子畑(みこばた)・明延(あけのべ)・中瀬(なかぜ)の4鉱山の歴史をたどりつつ鉱山町を歩き、鉱山遺構の数々に触れてみました。
①生野――最盛期は昭和30年代、日本初の官営鉱山のその後
■生野鉱山のプロフィール(明治以降)
生野銀山については冒頭でも触れました。明治元年に政府が接収して近代化を図り、明治9(1876)年に創業。日本の近代化を象徴する模範鉱山として国内外からさまざまな技術が集結しました。鉱山学校も開校して人材を全国に送り出しました。明治22(1889)年には宮内省御料局の所管に。明治29年(1896年)には三菱合資会社に払い下げられ、その後は三菱による経営が続きます。大正時代に入ると銀の産出量が徐々に減少し、銅・鉛・亜鉛・錫を中心に産出。昭和30年代には最盛期を迎えますが、鉱量の減少や輸入鉱石との価格競争などを背景に、昭和48(1973)年には閉山に至りました。坑道総延長は約350km、深さ880mにまで達し、採掘した鉱石の種類は70種類以上に及びました。
生野銀山については冒頭でも触れました。明治元年に政府が接収して近代化を図り、明治9(1876)年に創業。日本の近代化を象徴する模範鉱山として国内外からさまざまな技術が集結しました。鉱山学校も開校して人材を全国に送り出しました。明治22(1889)年には宮内省御料局の所管に。明治29年(1896年)には三菱合資会社に払い下げられ、その後は三菱による経営が続きます。大正時代に入ると銀の産出量が徐々に減少し、銅・鉛・亜鉛・錫を中心に産出。昭和30年代には最盛期を迎えますが、鉱量の減少や輸入鉱石との価格競争などを背景に、昭和48(1973)年には閉山に至りました。坑道総延長は約350km、深さ880mにまで達し、採掘した鉱石の種類は70種類以上に及びました。
江戸・明治・昭和の鉱山へタイムスリップ!
生野市街地から車で数分の位置にある「史跡生野銀山」を訪ねました。兵庫県朝来市総合政策課長の和田幸司さんにご案内いただき、観光坑道を見学します。
朝来市総合政策課 和田幸司さん(左)・岡坂拓実さん(中央)・兵庫県但馬県民局 尾形連さん(右)
和田さん:生野鉱山は、太盛(たせい)・金香瀬(かながせ)・青草(あおくさ)の3鉱区からなる日本有数の規模を誇る鉱山でした。昭和48年に閉山しますが、早くもその翌年には金香瀬鉱区の一部を観光用に公開。現在は全長約1km、江戸・明治・昭和の坑内の様子が見学できる観光坑道として整備されています。
坑道内の温度は年間通してほぼ一定の約13℃。入口から進むにつれて温度の変化が感じられます。冬はほんのりと暖かさを感じますが、真夏には外気温との差が20℃にもなり、長袖が必需品です。入口から水平に延びる坑道は採掘の跡ではなく、採掘場まで鉱員を運ぶトロッコのレールが敷設された“通勤鉄道”でした。現在はレールが撤去され、歩きやすくなっています。
坑内各所には全部で60体の電動人形が配置され、当時の道具を使った作業の様子が再現されています。和田さんによると、人形は一体一体に名前とキャラ設定があり、“スーパー地下アイドルGINZAN BOYZ”として売り出し中だとか。
少し歩くと、江戸時代に掘り進められた跡の展示がありました。人が四つん這いになってスレスレ通れるほど細い掘り跡です。
坑道内の温度は年間通してほぼ一定の約13℃。入口から進むにつれて温度の変化が感じられます。冬はほんのりと暖かさを感じますが、真夏には外気温との差が20℃にもなり、長袖が必需品です。入口から水平に延びる坑道は採掘の跡ではなく、採掘場まで鉱員を運ぶトロッコのレールが敷設された“通勤鉄道”でした。現在はレールが撤去され、歩きやすくなっています。
坑内各所には全部で60体の電動人形が配置され、当時の道具を使った作業の様子が再現されています。和田さんによると、人形は一体一体に名前とキャラ設定があり、“スーパー地下アイドルGINZAN BOYZ”として売り出し中だとか。
少し歩くと、江戸時代に掘り進められた跡の展示がありました。人が四つん這いになってスレスレ通れるほど細い掘り跡です。
和田さん:「狸堀(たぬきほり)」といいます。ボーリング技術がなかった江戸時代に、鉱脈を探すために掘り進めました。しかし掘り進んでも、必ず鉱脈に当たるとは限りません。まさに“ばくち”です。それで、ばくち打ち・ギャンブラーのことを「山師」というんですね。狸堀は一人の職人がノミ1本で掘っていくのですが、1日に数十センチしか進めなかったようです。見えないところでも雑な仕事はせず、きれいな四角形に掘ってありますね。
確かに、人の手で掘ったとは信じがたいほど几帳面な仕事がしてありました。江戸時代の手作業の跡に直接触れられることも史跡生野銀山の魅力的な特徴です。一方で、この細く長く暗い穴を一人で掘り進んでいく様を想像すると、底知れない恐ろしさにもとらわれます。鉱山近代化以降はボーリング技術が導入され、狸堀はしなくてもよくなりました。
確かに、人の手で掘ったとは信じがたいほど几帳面な仕事がしてありました。江戸時代の手作業の跡に直接触れられることも史跡生野銀山の魅力的な特徴です。一方で、この細く長く暗い穴を一人で掘り進んでいく様を想像すると、底知れない恐ろしさにもとらわれます。鉱山近代化以降はボーリング技術が導入され、狸堀はしなくてもよくなりました。
和田さん:地質調査などでは、ボーリングは下向きに行いますが、鉱山では鉱脈を探すために横向きに行います。白みがかった石英が見つかると、そろそろ鉱脈が近いというサインです。
鉱石運搬作業の展示がある場所に来ました。「シュリンケージ採掘法(上向採掘法)」と書かれたパネルがあります。上向採掘とはどういうことでしょうか。
鉱石運搬作業の展示がある場所に来ました。「シュリンケージ採掘法(上向採掘法)」と書かれたパネルがあります。上向採掘とはどういうことでしょうか。
和田さん:鉱脈を掘るといえば、上から下に掘ることをイメージするでしょう。ですが鉱山では鉱脈を上向きに掘って鉱石を下に落とすんです。落とした鉱石を機械でかき集めて、下に止めたトロッコに降ろして運び出します。下から持ち上げるには動力が必要ですが、上から落とすにはエネルギーを使いませんのでね。
さらに進んで、観光坑道の一番奥までやってきました。深さ730mの「光栄立坑」を降りていく2階建てエレベーターが姿をあらわしました。ここまでは、いわば“通勤路”。立坑をエレベーターで降りた先にある坑道が鉱員たちの仕事場になります。
さらに進んで、観光坑道の一番奥までやってきました。深さ730mの「光栄立坑」を降りていく2階建てエレベーターが姿をあらわしました。ここまでは、いわば“通勤路”。立坑をエレベーターで降りた先にある坑道が鉱員たちの仕事場になります。
和田さん:光栄第2立坑も含めると金香瀬鉱区の最深部は880mの深さ。ここまで深いと岩圧も相当高まります。この岩圧によって、一番下の36番坑が粉砕破壊される事故が起きました。幸い犠牲者はありませんでしたが、こんなに危険な状況ではこれ以上は掘り進められないということで、昭和48年に閉山となります。海外との価格競争に負けたということもありますが、当時の技術では安全な操業を続けることができないという判断もあったんです。
こうして生野鉱山は、多くの金属資源を残したまま閉山することになりました。鉱量が減少したとはいえ、掘り尽くされてしまったわけではなかったのです。
和田さん:生野と同様、資源を残したまま閉鎖された鉱山は日本中に存在しています。その意味では、日本は今でも「資源大国」なんですよ。
最期に、和田さんが考える史跡生野銀山・観光坑道の魅力について尋ねてみました。
和田さん:採掘技術の変遷、その時々の技術力のすごさもわかりますが、やはり大きいのは、人の力のすごさだと思います。「人間にはこれだけのことができるんだ」と実感できることが鉱山の魅力ではないでしょうか。
【史跡 生野銀山/生野銀山文化ミュージアム】
和田さん:生野と同様、資源を残したまま閉鎖された鉱山は日本中に存在しています。その意味では、日本は今でも「資源大国」なんですよ。
最期に、和田さんが考える史跡生野銀山・観光坑道の魅力について尋ねてみました。
和田さん:採掘技術の変遷、その時々の技術力のすごさもわかりますが、やはり大きいのは、人の力のすごさだと思います。「人間にはこれだけのことができるんだ」と実感できることが鉱山の魅力ではないでしょうか。
【史跡 生野銀山/生野銀山文化ミュージアム】
| 所在地 | 兵庫県朝来市生野町小野33-5 |
|---|---|
| アクセス | 播但連絡道路「生野ランプ」または「生野北第1ランプ」出口から車で約10分 |
鉱山の活況に育まれた文化と教養の鉱山町
史跡生野銀山を出て車で生野鉱山町・口銀谷(くちがなや)地区を訪ねました。明治から昭和にかけて作られた歴史ある建造物がたくさんあり、観光客や学習者のために整備されています。
和田さん:生野鉱山は昭和30年代に最盛期を迎えました。現在の生野町の人口は3000人ほどですが、最盛期には鉱員とその家族1万人以上が暮らしていました。町全体の金回りがよかったし、鉱員たちは命がけの仕事をしているだけに、給料を貯め込む習慣がなかった。お金を何に使うかというと、文化・教養です。鉱山で財をなした有力者がパトロンとなって芸術家を支援したこともあり、明治時代には著名な洋画家を3人も輩出しています。東京をはじめ日本中から人材が集まり、ハイカラな文化を生野に持ち込みました。食文化も例外ではなく、生野のハヤシライスは、昭和30年代に三菱の社宅で育まれた文化です。
旧生野鉱山職員社宅を訪ねます。
もとは明治時代、生野が官営鉱山だった時代にできた官舎でした。鉱山が三菱に払い下げられた後は、日本で最初の社宅となりました。課長クラス以上の管理職が住んでいたようです。
現在は4棟が保存され、屋内はそれぞれ明治・大正・昭和の生活の様子が再現されています。
現在は4棟が保存され、屋内はそれぞれ明治・大正・昭和の生活の様子が再現されています。
和田さん:黒澤映画で知られる昭和の名優、志村喬さんもこの社宅で生まれました。生家の甲11号棟は残っていませんが、甲7号棟を「志村喬記念館」として縁の品を管理・紹介しています。著名な俳優の方々がよくお越しになりますよ。また、甲社宅4棟のうちの2棟は宿泊施設として整備されています。南アフリカ出身の青年が地域おこし協力隊として管理しており、海外からの旅行客が長逗留する宿になっています。古き良き日本の原風景が味わえることが魅力のようですね。
鉱山町の南に架かる橋から市川の清流を見下ろします。川の上流はオオサンショウウオの生息場所となっており、運がよければ町中に架かるこの橋からもオオサンショウウオの姿が見られるということです。
和田さん:市川の水がきれいな理由は、鉱山会社が鉱山保安法に則って排水の水質管理を続けているからです。また町中の各所で見かける「カラミ石」は、銅製錬後に出るカスを廃棄せず、押し固めて建材にしたもので、環境に配慮したリサイクル製品といえます。かつては“究極の自然破壊業”でもあった鉱山会社が、現在は環境保全に尽力しているわけで、持続可能な社会を担う出発点は鉱業であるという見方もできるのではないかと思っています。
鉱山町の南に架かる橋から市川の清流を見下ろします。川の上流はオオサンショウウオの生息場所となっており、運がよければ町中に架かるこの橋からもオオサンショウウオの姿が見られるということです。
和田さん:市川の水がきれいな理由は、鉱山会社が鉱山保安法に則って排水の水質管理を続けているからです。また町中の各所で見かける「カラミ石」は、銅製錬後に出るカスを廃棄せず、押し固めて建材にしたもので、環境に配慮したリサイクル製品といえます。かつては“究極の自然破壊業”でもあった鉱山会社が、現在は環境保全に尽力しているわけで、持続可能な社会を担う出発点は鉱業であるという見方もできるのではないかと思っています。
川に沿った石垣の上はトロッコ軌道跡。生野の町中を走っていた馬車鉄道が危険だったため廃止され、大正9(1920)年に電車軌道として整備されました。現在は趣のある遊歩道となっています。
【旧生野鉱山職員社宅/志村喬記念館】
| 所在地 | 兵庫県朝来市生野口金谷697番1 |
|---|---|
| アクセス | 播但連絡道路「生野ランプ」出口から車で約5分 JR播但線「生野」駅から徒歩約15分 |
生野を出て国道429号線で神子畑へと向かいます。神子畑選鉱場の2kmほど手前に「神子畑鋳鉄橋」が見えてきました。お雇い外国人に頼らず、設計から施工まですべて日本人が行ったということです。
神子畑が銀鉱石を産出した明治初期、生野-神子畑間には鉱石運搬用の馬車鉄道が敷設されていました。神子畑鋳鉄橋はそのために架けられたもので、「鉱石の道」の一部分です。純粋な鋳鉄でできた橋としては日本最古のもので、国の重要文化財に指定されています。
神子畑が銀鉱石を産出した明治初期、生野-神子畑間には鉱石運搬用の馬車鉄道が敷設されていました。神子畑鋳鉄橋はそのために架けられたもので、「鉱石の道」の一部分です。純粋な鋳鉄でできた橋としては日本最古のもので、国の重要文化財に指定されています。
②神子畑――生野の支山から「東洋一の選鉱場」へ
■神子畑鉱山/選鉱場のプロフィール(明治以降)
明治11(1878)年に銀鉱脈が発見され、生野の支山として採鉱が始まりました。明治30年代まで繁栄しますが、その後鉱量が減少。明治42(1909)年に明延で錫鉱脈が見つかると、神子畑は錫鉱石の選鉱場へと役割を変えます。昭和4(1929)年には明延-神子畑(約6km)をつなぐ「明神電車軌道」が開通し、明延で採れた鉱石を輸送。その後は鉱員の通勤電車にもなりました。昭和9(1934)年には硫銅選鉱場を開設、昭和15(1940)年の拡張工事を経て、神子畑は「東洋一の選鉱場」へと成長。交代制で24時間稼働していたことから「不夜城」にも例えられました。昭和30年頃には約1300人が神子畑地区で生活していましたが、昭和62(1987)年、明延鉱山の閉山に伴い閉鎖となりました。
神子畑選鉱場では、22階建のビルに相当する高低差を利用して錫鉱石の選鉱が行われていました。
選鉱場が閉鎖された後も建物は残っていたそうですが、平成16(2004)年に老朽化のため取り壊され、現在私たちが見られるのはその基礎部分だけ。それでも、山の斜面に長さ165m・幅110mにわたって連なる巨大なコンクリート遺構は迫力があります。
明治11(1878)年に銀鉱脈が発見され、生野の支山として採鉱が始まりました。明治30年代まで繁栄しますが、その後鉱量が減少。明治42(1909)年に明延で錫鉱脈が見つかると、神子畑は錫鉱石の選鉱場へと役割を変えます。昭和4(1929)年には明延-神子畑(約6km)をつなぐ「明神電車軌道」が開通し、明延で採れた鉱石を輸送。その後は鉱員の通勤電車にもなりました。昭和9(1934)年には硫銅選鉱場を開設、昭和15(1940)年の拡張工事を経て、神子畑は「東洋一の選鉱場」へと成長。交代制で24時間稼働していたことから「不夜城」にも例えられました。昭和30年頃には約1300人が神子畑地区で生活していましたが、昭和62(1987)年、明延鉱山の閉山に伴い閉鎖となりました。
神子畑選鉱場では、22階建のビルに相当する高低差を利用して錫鉱石の選鉱が行われていました。
選鉱場が閉鎖された後も建物は残っていたそうですが、平成16(2004)年に老朽化のため取り壊され、現在私たちが見られるのはその基礎部分だけ。それでも、山の斜面に長さ165m・幅110mにわたって連なる巨大なコンクリート遺構は迫力があります。
【神子畑選鉱場跡】
| 所在地 | 兵庫県朝来市佐嚢1842番地1 |
|---|---|
| アクセス | 播但連絡道路「朝来」ICから車で約10分 JR播但線「新井」駅からタクシーで約10分 |
③明延――「日本一の錫鉱山」が、ほぼ当時のまま残る
■明延鉱山のプロフィール(明治以降)
銅山・銀山として古くから盛衰を繰り返した明延鉱山は明治5(1872)年に官営化、明治29(1896)年に三菱に払い下げられました。明治42(1909)年、錫鉱脈が発見されると「日本一の錫鉱山」として栄えます。全国産出量の90%を占めた錫のほか、銅・鉛・亜鉛なども産出し、最盛期の昭和30年頃には鉱山従業員1500人、鉱山町の人口は4000人を越える規模へと成長しました。
昭和62(1987)年、海外との価格競争にさらされた結果、多くの鉱脈を残したまま閉山。坑道の総延長は約550km、高低差(最上部から最深部まで)約1000mに及びました。
神子畑の遺構に別れを告げて国道と県道を約30分、山をぐるっと回り込むように走って明延鉱山に到着しました。かつてはこの明延-神子畑間を明神電車軌道が、山中を抜けるトンネルを使って最短距離(約6km)で結んでいました。これも実在した「鉱石の道」の一部です。
銅山・銀山として古くから盛衰を繰り返した明延鉱山は明治5(1872)年に官営化、明治29(1896)年に三菱に払い下げられました。明治42(1909)年、錫鉱脈が発見されると「日本一の錫鉱山」として栄えます。全国産出量の90%を占めた錫のほか、銅・鉛・亜鉛なども産出し、最盛期の昭和30年頃には鉱山従業員1500人、鉱山町の人口は4000人を越える規模へと成長しました。
昭和62(1987)年、海外との価格競争にさらされた結果、多くの鉱脈を残したまま閉山。坑道の総延長は約550km、高低差(最上部から最深部まで)約1000mに及びました。
神子畑の遺構に別れを告げて国道と県道を約30分、山をぐるっと回り込むように走って明延鉱山に到着しました。かつてはこの明延-神子畑間を明神電車軌道が、山中を抜けるトンネルを使って最短距離(約6km)で結んでいました。これも実在した「鉱石の道」の一部です。
明神電車軌道は昭和4(1929)年に開通し、昭和20年からは乗客も運びました。昭和27年、乗客数を数えやすくするため運賃を1円にしたことから「一円電車」の愛称で親しまれました。
閉山当時の雰囲気が保存された坑道を探検!
生野に続き、明延でも旧坑道を見学します。事前に養父市立あけのべ自然学校でお借りしたヘルメットとゴム長靴を着用して、「明延鉱山探検坑道」に入ります。先導してくださるのは、「鉱石の道」明延実行委員会会長で明延区区長の小林史朗さんです。
小林さん:私たちが立っている場所よりも2階層高い場所に鉱山の本社があり、そこに集められた鉱石は明神電車で、同じ階層の神子畑選鉱場へと運ばれていました。鉱山本社を基準として、それより上に18階層、下にも18階層、合計36階層にわたって坑道が掘られていました。1階層が30mですから、坑道の最大高低差は1080m。総延長550km、東京-大阪間の距離に匹敵する坑道が、面積5k㎡ほどの宝の山を構成していました。
観光坑道として整備されていた史跡生野銀山とは異なり、明延鉱山探検坑道は、閉山時の状態がほぼそのまま保存されていることが特徴。トロッコのレールも昭和62年当時のまま残されています。歩いていくと、頭をかすめる岩や水たまりもあり、ヘルメット・長靴着用の意味がわかります。
さらに進むと、高さ20mに及ぶ空洞がありました。銅鉱脈を上に向かって掘った跡です。
さらに進むと、高さ20mに及ぶ空洞がありました。銅鉱脈を上に向かって掘った跡です。
小林さん:鉱脈は、地中深いところから地表に向かって岩の裂け目に入り込んで上っていったもので、巨大な壁のような形で埋まっています。これを上に向かって堀り、落ちてきた鉱石の一部を足場として利用しながらさらに上へと掘り進めます。そして鉱脈を掘り採った跡がこのような空洞になります。
史跡生野銀山で和田さんから聞いた説明と一致します。シュリンケージ採掘法ですね。
史跡生野銀山で和田さんから聞いた説明と一致します。シュリンケージ採掘法ですね。
ボーリングマシンは1000mも先まで一度に調査できたとのこと。角度を変えて何本も調査することで、明延鉱山の立体的な構造が把握できました。そして、これらの機械を動かす動力としてエアモーター、つまり圧縮空気が使われていました。
小林さん:そもそも鉱山では、中で働く人のために酸素を送り込む必要があり、江戸時代以前はふいごを人力で動かしていました。近代化以降は「どうせ空気を送るのなら動力としても使おう」ということで、8気圧まで空気を加圧し、坑内にはりめぐらされたパイプを通して送り込んでいました。当時のパイプは、現在も撤去されずに残っています。
ところで、電気ではなく空気圧をエネルギーとして使ったということは、照明はどうしていたのでしょうか。現在の探検坑道には電気の明かりが点いていますが……
小林さん:坑内に照明設備はありませんでした。真っ暗です。鉱員はヘルメットに付けた豆電球のランプを、腰に下げた2Vバッテリーで灯して作業しました。
坑内では、その安定した低温と暗さを活かして、日本酒やだし醤油の熟成が行われています。
小林さん:そもそも鉱山では、中で働く人のために酸素を送り込む必要があり、江戸時代以前はふいごを人力で動かしていました。近代化以降は「どうせ空気を送るのなら動力としても使おう」ということで、8気圧まで空気を加圧し、坑内にはりめぐらされたパイプを通して送り込んでいました。当時のパイプは、現在も撤去されずに残っています。
ところで、電気ではなく空気圧をエネルギーとして使ったということは、照明はどうしていたのでしょうか。現在の探検坑道には電気の明かりが点いていますが……
小林さん:坑内に照明設備はありませんでした。真っ暗です。鉱員はヘルメットに付けた豆電球のランプを、腰に下げた2Vバッテリーで灯して作業しました。
坑内では、その安定した低温と暗さを活かして、日本酒やだし醤油の熟成が行われています。
小林さん:ここは鉱山の地下事務所として使われていた場所で、現在は酒蔵「明壽蔵(めいじゅぐら)」となっています。大阪国税局が認めた酒蔵で、純米酒「明延」や純米吟醸酒「仙櫻」などの熟成が行われています。熟成させることで角が取れておいしいお酒になるんですよ。
蔵出しから数日で売り切れてしまう“幻の酒”とのこと。「室温が10~13℃と微妙に揺らぐことが、おいしさを生む秘密ではないか」というのが小林さんの説です。
蔵出しから数日で売り切れてしまう“幻の酒”とのこと。「室温が10~13℃と微妙に揺らぐことが、おいしさを生む秘密ではないか」というのが小林さんの説です。
最下層にあたる15~18階層で、鉱石を運び出すために使われていた10tダンプトラックで、動力はディーゼルエンジン。排気ガスは500mもの垂直ダクトをつないで強制排気したということです。
小林さん:明治から昭和までの間に明延鉱山で生まれた技術や、但馬の鉱山群で育った人材は、日本全国に広がっていきました。また、明延で使われていた技術が、今も鹿児島県の菱刈鉱山で活用されています。「銀の馬車道・鉱石の道」は物理的には分断されてしまいましたが、明治・大正・昭和の技術は令和の現在までつながっているんです。
昭和30年ごろの炭鉱を描いた人気ドラマ(2024年)のロケ地にもなった明延鉱山探検坑道。
“聖地巡礼”も兼ね、鉱山技術史に触れてみてはいかがですか?
【明延鉱山探検坑道/養父市立あけのべ自然学校】
昭和30年ごろの炭鉱を描いた人気ドラマ(2024年)のロケ地にもなった明延鉱山探検坑道。
“聖地巡礼”も兼ね、鉱山技術史に触れてみてはいかがですか?
【明延鉱山探検坑道/養父市立あけのべ自然学校】
| 所在地 | 兵庫県養父市大屋町明延1184 |
|---|---|
| アクセス | 北近畿豊岡自動車道「養父」ICまたは「八鹿氷ノ山」ICから約40分 中国自動車道「山崎」ICから約1時間 JR山陰本線「八鹿」駅から全但バス(明延線)約1時間 |
若い力が全国から集まり、鉱山町は未来に続く
探検坑道を出て、明延鉱山町のメインストリートに移動しました。
小林さん:昭和30~40年ごろには最大4300人が鉱山町で暮らしていました。鉱山社宅が建ち並び、800人の子どもが通う小学校がありました。家電やスキー板までが揃うマーケット、昭和のスターがたびたび訪れた映画館・劇場、脳外科手術も可能な但馬地域最大の総合病院もあり、衣食住のすべてを町内で賄うことができました。鉱山社員の待遇はよく、暮らしが豊かだったので、お子さんたちを大都市の大学に入学させました。都市で生活するようになれば、明延には帰って来ません。現在、明延区の人口は50人を切り、他の中山間地域と同じく過疎化が課題となっています。
一方で明るい兆しもあります。龍を図案化した昭和の看板が印象的な「小林たばこ屋」の建物をリノベーションし、地区内外の人々の交流の場として復活させる「あけのべプロジェクト」です。
小林さん:昭和30~40年ごろには最大4300人が鉱山町で暮らしていました。鉱山社宅が建ち並び、800人の子どもが通う小学校がありました。家電やスキー板までが揃うマーケット、昭和のスターがたびたび訪れた映画館・劇場、脳外科手術も可能な但馬地域最大の総合病院もあり、衣食住のすべてを町内で賄うことができました。鉱山社員の待遇はよく、暮らしが豊かだったので、お子さんたちを大都市の大学に入学させました。都市で生活するようになれば、明延には帰って来ません。現在、明延区の人口は50人を切り、他の中山間地域と同じく過疎化が課題となっています。
一方で明るい兆しもあります。龍を図案化した昭和の看板が印象的な「小林たばこ屋」の建物をリノベーションし、地区内外の人々の交流の場として復活させる「あけのべプロジェクト」です。
小林さん:全国の若い人たちがこの地に注目し、クラウドファンディングで資金集めをするなど、活性化に努めてくれています。一方、ITを駆使した遠隔医療のモデル事業にも挑戦中です。こうした実験的な取り組みがうまくいけば、全国の過疎地域に希望をもたらす好例になります。ぜひ成功させたいですね。
クラウドファンディングの立ち上げからわずか2か月で目標額に到達したということです。地域に根差した人々の取り組みも、鉱山町の記憶を未来につなぐ「道」なのだと、小林さんのお話を聞いて感じました。
④中瀬――日本一の自然金とアンチモンを産出
日本遺産「播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道」の北端にあたるのが、中瀬の鉱山遺構と鉱山町です。明延鉱山町から車で40分ほどの距離にあります。
■中瀬鉱山のプロフィール(明治以降)
明治5(1872)年に明延・神子畑とともに官営化され、明治29(1896)年に三菱に払い下げられました。
昭和10(1935)年からは日本精鉱株式会社の経営に移ります。良質な金とアンチモンの鉱脈が発見され、近代鉱山として発展しました。中瀬で採れた自然金の中には長さ7cmもの棒状の結晶もありました。昭和44(1969)年までの34年間で約7tを超える金を産出しましたが、採掘可能な鉱脈の金の含有量が減少したため採掘部門は閉鎖となります。金のほかには銀約39t、アンチモン約6000tを産出しました。輸入材料によるアンチモン製錬は現在も行われており、国内生産量の80%以上、世界的にも最高品質のアンチモンを生産しています。
今回お会いできた但馬地域の方々の話を総合すると、明延と中瀬の間には、鉱石を運んだ“物理的な道”は存在しなかったようです。とはいうものの、日本遺産のストーリーに明記された「生産から輸送・物流に及ぶ『海と山を結ぶ鉱業コンビナート』」の一画を中瀬鉱山が担ったことは間違いありません。
今回はガイドなしで鉱山町を歩いてみましたが、この町を訪ねるのなら町歩きガイドさんと一緒に歩くのがおすすめ。金の鉱石を叩いた石臼など、江戸時代から残る鉱山遺産が発見できるでしょう。
■中瀬鉱山のプロフィール(明治以降)
明治5(1872)年に明延・神子畑とともに官営化され、明治29(1896)年に三菱に払い下げられました。
昭和10(1935)年からは日本精鉱株式会社の経営に移ります。良質な金とアンチモンの鉱脈が発見され、近代鉱山として発展しました。中瀬で採れた自然金の中には長さ7cmもの棒状の結晶もありました。昭和44(1969)年までの34年間で約7tを超える金を産出しましたが、採掘可能な鉱脈の金の含有量が減少したため採掘部門は閉鎖となります。金のほかには銀約39t、アンチモン約6000tを産出しました。輸入材料によるアンチモン製錬は現在も行われており、国内生産量の80%以上、世界的にも最高品質のアンチモンを生産しています。
今回お会いできた但馬地域の方々の話を総合すると、明延と中瀬の間には、鉱石を運んだ“物理的な道”は存在しなかったようです。とはいうものの、日本遺産のストーリーに明記された「生産から輸送・物流に及ぶ『海と山を結ぶ鉱業コンビナート』」の一画を中瀬鉱山が担ったことは間違いありません。
今回はガイドなしで鉱山町を歩いてみましたが、この町を訪ねるのなら町歩きガイドさんと一緒に歩くのがおすすめ。金の鉱石を叩いた石臼など、江戸時代から残る鉱山遺産が発見できるでしょう。
兵庫県播磨地域の南端、姫路港・飾磨津物揚場を発端に、但馬地域の生野を経て神子畑・明延・中瀬に至る「播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道」全長73kmをたどってみました。
日本の近代化や経済成長を支えた鉱業と物流の軌跡を、できることなら数日間をかけてゆっくりと味わってみてはいかがでしょうか。
日本の近代化や経済成長を支えた鉱業と物流の軌跡を、できることなら数日間をかけてゆっくりと味わってみてはいかがでしょうか。
| 【本稿で紹介した構成文化財】 | 生野鉱山寮馬車道跡 飾磨津物揚場跡 馬車道修築碑 辻川町 三木家住宅 粟賀町 竹内家住宅 生野鉱山関連遺構 生野鉱山町 神子畑鋳鉄橋 神子畑選鉱場跡 旧神子畑鉱山事務所(ムーセ旧居) 明延鉱山明神電車 明延鉱山関連遺構・明延鉱山町 中瀬鉱山関連遺構・中瀬鉱山町 |
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